トリッキー・ブルー

 

あなたはいつも謙虚で・・・

 あなたはいつも優しくて・・・

 あなたは何だってできて・・・

 あなたはこの世の全てで・・・

 絶対に代わりのいない人・・・

 でも、あなたは気がついていない・・・

 人を不幸にすると思い込んでる・・・

 あなたに伝えたかった・・・

 でも、そうしたら壊れてしまう気がして・・・

 だから、今のままでいい・・・

 ずっと、そう思っていた・・・

 

「催眠、かけさせてよ。」

 夕日の差し込む放課後の教室。彼の唐突な言葉に彼女は困惑していた。

「え・・・?それってどういう意味?」

 今日は少し掃除が長引いた。二人でゴミ捨てを担当した。そして彼らは、夕日の差し込む放課後の教室。二人きりになった。

「ね、立川(たちかわ)さん、興味ない?」

 彼の顔が紅く見えるのは夕日のせいだろうか。彼はいま自分の持ちうる最大の勇気を持って喋っていた。彼の心臓が高鳴っているのが傍目にもわかる。それを確認した彼女はフッと微笑んだ。

「うん、興味ある、かな・・・いいよ。ここでできるの?」

 彼は顔を輝かせた。そしてとても安心した表情で頷いた。彼が何を意図して催眠をかけようとしているのか。今はそんなことは問題ではない。彼は、単純に彼女と二人きりの時間が増えたことを喜んでいた。

「じゃあ八十島(やそじま)君、私はどうすればいい?」

 すると彼は手早く教室の机をどけて椅子をセッティングした。まるであらかじめプログラムしていたかのような手際よさである。

「じゃあ、立川さんはそこに掛けて。」

 彼女はおとなしく席に着く。そして次の指示を待った。

「うん。じゃあ、不要な小物は全部外して?力を抜いて楽にしてね。」

 彼女は着々と言われたとおりに進めて行く。遠くで部活の声が聞こえる。今日は文化系の部活動は休み。だからここには誰も入っては来ない。紅く染まった教室には二人の声だけが響く。

「じゃあ、まずはテストからはじめてみようか。」

 言って彼は、彼女に深呼吸するように指示した。ゆっくり、とてもゆっくりとしたリズムを彼女は刻み始める。彼女の目を見た。彼は引き込まれた。まるで自分が催眠にかけられているような気分にさえなった。しかし、時間がたつに連れ彼女の目は次第に脱力して行く。変化に気がつき、彼は慌てて暗示を与える。

「さぁ、深呼吸してると、だんだん気分が落ち着いてきたでしょ?何だか目蓋も重く感じてくるね・・・」

 彼女の呼吸に合わせて彼は暗示を与えて行く。

「そう、とってもリラックスしてる・・・目蓋が重くなって、だんだん下がってくるよ・・・無理に抵抗はしなくていいよ。自分の体に従って・・・」

 そうして暗示を与え続けて30秒ほど経過した頃、彼女はついに目蓋を完全に閉じてしまった。彼女の被暗示性の高さに彼も少々驚いていた。

「さぁ、深呼吸するにつれてだんだん頭がぽーっとしてくる・・・もう何も考えなくていいよ・・・全部僕に任せて・・・」

 彼女の首がかくんと後ろへ倒れる。彼はそれを優しく受け止めると首を痛めないように前へ倒してやった。窓から差し込む日がほぼ平行になっている。眩しさが妨げにならぬようカーテンもそっと閉めた。彼はすっかり弛緩しきった彼女を見てドキドキしていた。まるで眠っているかのような安らかな表情、無防備な肢体。さすがにここまで反応がいいとは予想しておらず、テストとは言ったものの、もうその必要は明らかに無かった。

しかし、そこで一つ気がついた。催眠をかけるに当たって目標を設定していない。彼女に何をしてあげるべきか、彼女が何を望んでいるのかを聞き忘れたのである。仕方なく彼は今聞いてみることにした。

「立川さん、僕の声、聞こえる?」

 すると彼女はゆっくりと頷いた。

「立川さん、えと・・・今・・・何か悩んでることとかあるかな?」

 彼女はその言葉にゆっくりと口を開いた。

「好き・・・な、人・・・」

 彼はその言葉に聞いてしまっていいものか、少し悪い気がして胸が痛んだ。しかし、催眠とは本人が心の底から望まないことはさせることができないものだ。つまりは彼女はそれを話すことを了承したのだろう。とてもかわいらしい姿だった。椅子に座って無防備に弛緩しきった少女。

「・・・・・・・・・立川さん、僕のこと、好き?」

 彼は、何の他意も無く、ただその姿を見ていると、自然にその言葉が口をついた。それは、他の誰にも真似のできない、本当に純粋な言葉だった。彼は自分の信じられない発言に頬を紅くしてフッと自嘲の笑みを漏らす。

「ぼ、僕ってば、何言ってんだろ。こんなこと言ってみても、もう立川さんには好きな人が・・・」

 しかし、彼の言葉はそこまでだった。彼女から、返事が返ってきたのだ。

「うん・・・八十島君、好き・・・」

 その時、彼は巨大な衝撃を受け、その場にへたり込んだ。催眠は本人の望まない事はできない。そうは言っても彼には許せなかった。彼は、彼女のことが好きだった。それもかなり昔からである。しかし、自分は人を不幸にする。だから、我慢しないと。そう思っていた。自分さえ我慢すれば大丈夫。自分一人傷つけば皆笑っていられる。何故そう思い始めたのかは他人には知りようが無い。しかし、彼はそれをずっと自分のアイデンティティとして生きてきた。自分さえ、我慢すれば・・・なのに、それなのに今、自分は、最も避けるべき行為を・・・最大の禁忌を犯してしまったのである。それも、こんな、半分騙す様な方法で・・・好きだからこそ、彼女が好きだからこそ余計許せなかった。

日は既に沈み始め、夜の帳が下りようとしている。運動部も徐々に解散し始めた。彼は心に深い闇を抱えたまま、彼女に忘却暗示を与え、全てを円満に終わらせた。いつものように、自分ひとりで抱え込んで・・・

 

「なんで!?一体どうしてなの!?」

 その日、彼女は泣いていた。あれから一ヶ月が経つ。彼はあの日以来一言も口を利いてくれない。いや、それどころか自分を避けているようにすら感じる。彼女はたまりかねてこの日、放課後に彼を捕まえた。あの日同様、邪魔者はいない。夕日だけが紅く燃える教室。

「だから、立川さん・・・僕、今日急ぐんだよ・・・」

 しかし、彼女は逃がしてはくれない。彼はあの日以来晴れない闇を抱えて葛藤していた。もう、限界だった。これ以上揺さぶられると、抱えきれず、闇を吐き出してしまいそうだった。

「頼むよ、立川さん。ダメなんだよ、帰らせてよ・・・!」

 すると彼女は突然彼の目を覗き込んだ。涙に濡れた必死の目、彼は崩れた。

「お願いだよ・・・もう諦めてよ・・・僕はダメなんだ!聞いちゃったんだよ!あの日、実は君に・・・」

 そこまで言いかけた彼の言葉を遮って彼女は言い放つ。その時見た彼の目も、いつの間にか涙が溢れていた。

「知ってるわよ!私・・・覚えてる!だって、あれは・・・」

 その時、彼は心の底から驚愕した。確かに念入りに忘却暗示をかけたはずである。まして、あれほど被暗示性が高かったのに・・・

「・・・でも、だからって・・・僕がしたことは君を・・・!!」

「ごめん、八十島君!私、こんなつもりじゃなかったの!!」

 言うと同時に、彼女は指をパチンッ、と鳴らした。その音は、彼の中で何度も反響し、彼は何かを想起するような・・・どう言い表していいか分からないが、脳内に大量の情報が不意に現れた。流れ込んだのではない。現れたのだ。

「・・・・・・・・・え?」

 

「八十島君、催眠って興味ない?」

「え?どうしたの急に・・・」

「結構面白いのよ?」

「へぇ〜、できるの?やって見せてよ。」

 それは一ヶ月前の昨日の光景だった。

「すごい・・・八十島君の被暗示性の高さは半端じゃないわ・・・」

 彼女は催眠をかけた。それは彼がその次の日に彼女にしたことと全く同じ。そして、彼女もこう聞いたのだ。

「・・・ねぇ、八十島君・・・私のこと、好き?」

 そして、その返事はもちろん・・・

 しかし、話はまだ終わらない。

「八十島君、君は明日の放課後私に・・・」

 彼女は次の日、彼が自分に催眠の実験をするように後催眠をかけた。

 更に、彼女は彼に催眠のかけ方を手解きし、忘却暗示をかける。

「それにしてもすごいわ。八十島君、もう催眠のかけ方覚えちゃった・・・」

 そして、指を鳴らせば全てを思い出すことも暗示した。

 目を覚まさせる。適当に誤魔化しながら・・・

 その時、彼女の口には自嘲の笑みが浮かんでいた。

 とても、悲しそうな目だった。

 

「立川、さん・・・?」

 彼は彼女の目を見た。彼女の目はもう涙で何だか分からなくなっていた。

「あなたはいつも謙虚で・・・あなたはいつも優しくて・・・あなたは何だってできて・・・あなたはこの世の全てで・・・絶対に代わりのいない人・・・でも、あなたは気がついていない・・・人を不幸にすると思い込んでる・・・あなたに伝えたかった・・・でも、そうしたら壊れてしまう気がして・・・だから、今のままでいい・・・ずっとそう思ってた・・・だけど、耐えられなかったのよ・・・あなたが一人で傷つくのも・・・自分の気持ちを隠し通すのも!あの時偶然、両想いだった事を知って、その場は嬉しかった・・・けど、私は怖かったの・・・私の一言で、あなたを壊してしまうかもしれないと思うと・・・だから、あなた自身に気がついてもらおうって・・・そう思って・・・でも・・・」

 その時、紅い教室で、彼女の紅くなった瞳を見つめながら彼は口を開いた。

「でも・・・逆に僕を傷つけた。」

 その彼の声は、いつものそれではなかった。怒っている様な、泣いている様な・・・何にせよそれは彼女の胸を深く抉った。

「立川さん・・・酷過ぎるよ・・・僕は、誰も傷つけたくないのに・・・。僕は、この一ヶ月君を無視し続けた。そんな嫌な奴なんだ、嫌いになってよ・・・」

 紅い陽光が二人を照らす。彼女は大きく首を横に振った。

「違う、あなたは誰も傷つけたりしてない・・・少なくとも私は、いつだって、助けてもらってる。嫌いになんて、なれるわけないよ・・・!」

 すると今度は彼が首を大きく横に振った。

「違うんだ!君は本当の僕を知らないんだよ・・・!いや、いい。わかったよ、どうしても君が僕を嫌いになってくれないのなら、僕が君を嫌いになる!!」

 彼が叫んだ。瞬間、彼女は彼に抱きつく。

「嫌いでもいいよぉ!!私は好きだよ!!八十島君が私を不幸にするって言うんなら、私はいくらでも不幸になる!いえ、あなたは絶対そんな人じゃない!一体どれだけあなたを見てきたと思ってるの!?もっと、素直になってよ!!」

 彼女は、今までずっと内に秘めていた激情を全て吐き出した。彼は、泣いていた。しかし、それは違った。先までの涙とは違う・・・彼は、彼女の突然の行動に驚き、目を見開いていた。しかし、彼の表情はすぐ柔らかくなった。そのまますっと弛緩してゆく。そして、彼は言った。

「・・・そうだよ・・・ごめんね、僕・・・無神経だった・・・悩んでるのは、僕だけじゃないのに・・・君だって・・・・・・ありがとう・・・」

 彼の中の闇が消えていった。

 

紅い陽光が差し込む・・・

紅く染まった教室・・・

涙で紅くなった瞳・・・

真っ赤な世界に蒼い二人はいた・・・

少し、大人びたような、難しいような・・・

でも、とても脆い、蒼い二人・・・

沈み行く陽光に世界は蒼く染まり始める・・・

二人の障害は何も無い、蒼い教室・・・

黄昏の蒼い風にカーテンだけが揺れていた・・・ トリッキー・ブルー(完)